『底地・借地権の信託』高齢地主の認知症対策としての民事信託
小林昭三は八十二歳。先祖代々の土地を、五軒の借地人に貸している地主だ。ある日、同じように底地を持つ旧友が認知症になったと聞かされた。旧友の借地人が建物の建て替えを望んでも、地主本人が判断できず、承諾の書面に判を押せない。借地契約の更新も進まず、借地人は新築のローンも組めずに困っているという。昭三は他人事とは思えなかった。自分の借地人たちも、多くは長年住み続けてきた高齢の家族だ。もし自分が同じ状況になれば、誰が借地人の相談に応じるのだろうか。
昭三は長男の隆を呼んで不安を打ち明け、司法書士のもとへ相談に行った。司法書士は丁寧に説明した。「地主さんが認知症になって判断能力が失われると、建替え承諾、更新契約、地代の改定、承諾料の合意といった行為が、原則としてできなくなります。成年後見制度を使う方法もありますが、土地の処分には家庭裁判所の許可が必要になるなど、柔軟な運用が難しい面があります」。
そこで司法書士が提案したのが、民事信託だった。昭三が委託者兼受益者となり、隆を受託者として、底地を信託する。土地の名義は信託登記とともに隆に移るが、地代などの収益を受け取る権利は引き続き昭三が持つ。隆は信託契約に基づいて、借地契約の更新、建替えの承諾、承諾料の協議など、地主としての管理を行える。昭三の判断力が落ちた後も、隆の判断で手続きを進められる仕組みだ。
昭三は少し迷った。「家のことは、元気なうちに自分で決めたい」という思いも強かった。名義を息子に移すことへの抵抗があり、母の代からの借地人との付き合いが途切れるのも心配だった。司法書士は、信託契約には、隆に任せる範囲や、売却するときの条件を細かく定められると話した。そして、借地人へのあいさつと説明の大切さにも触れた。賃貸人の立場が隆に引き継がれることを、昭三自身の言葉で借地人に伝えておくと、誤解や不安を防げるのだという。
昭三は信託契約を公正証書で作成し、信託登記を済ませた。税金の扱いについては、税理士にも確認し、信託の登記費用なども含めて見通しを立てた。そのうえで、手書きの案内状を携えて、五軒の借地人を一軒ずつ訪ね、「これからは息子の隆が窓口になります。いつもどおり安心して暮らしてください」と頭を下げた。借地人たちは、突然のことに驚きながらも、昭三の誠実な説明を聞いて表情をやわらげ、「ありがたい。先のことまで考えていただいて」と受け入れてくれた。
二年後、昭三は認知症と診断され、施設に入った。ちょうどそのころ、借地人の山下さんから、老朽化した自宅を建て替えたいという相談が隆に届いた。隆は受託者として山下さんの自宅を訪れ、図面や工事の計画を見せてもらいながら話し合い、建替え承諾と承諾料の条件を取り決めた。昭三の判断を待つ必要はなく、手続きは滞りなく進んだ。隆は、施設の昭三にも様子を報告し、昭三は穏やかにうなずいた。山下さんは、新しい家で孫と暮らせることを、心から喜んでいた。
信託は、親が元気なうちでなければ結べない。旧友の借地人は、その後も建替えの目途が立たず、不安な日々を過ごしていると聞く。昭三は、旧友の話を聞いてすぐ動いたことが、自分の家族と借地人たちの暮らしを守ったと感じている。底地は、地主一人の問題ではなく、借地人の生活にもつながる財産だ。だからこそ、認知症に備えた準備は、早すぎることはないのだと、隆は今では考えている。
学びのボックス
| 地主の認知症のリスク | 判断能力が失われると、建替え承諾・更新契約・地代改定・承諾料の合意などができなくなり、借地人も困ることになる。 |
| 底地を信託する仕組み | 地主が委託者兼受益者、子が受託者となり、底地を信託する。名義は受託者に移り、収益は引き続き地主が受け取る。 |
| 管理・処分権限の引継ぎ | 受託者は信託契約に基づき、更新・建替え承諾・承諾料の協議などを行える。地主の判断力が落ちた後も手続きを進められる。 |
| 成年後見制度との違い | 成年後見では土地の処分に家庭裁判所の許可が必要になるなど、柔軟な運用が難しい場合がある。信託は契約で範囲を設計できる。 |
| 借地人への説明と注意点 | 信託後は賃貸人の立場が受託者に移るため、借地人へ丁寧に説明する。登記や税金の扱いは専門家に確認する。信託は元気なうちに結ぶ必要がある。 |




