『契約書がない借地』の境界と権利証明
中村隆之は、祖父の代から借りている土地の上に建つ古い木造家屋を相続した。祖父がこの土地を借りたのは終戦直後、混乱の中で口約束に近い形で始まった借地だったという。当時は正式な契約書を交わす余裕もなく、地代を毎月直接地主のもとへ届けていたと、隆之は父から聞かされていた。祖父も父もすでに他界し、今は隆之が家を引き継いで住んでいる。築七十年を超える家は老朽化しているものの、隆之にとっては幼い頃から慣れ親しんだ思い出の詰まった場所だった。
きっかけは、隣接する土地の売却話だった。買主候補の不動産会社が、隆之の家の敷地について「借地契約書の写しを提出してほしい」と言ってきたのだ。実家の押し入れや納戸を隅々まで探しても、契約書らしきものは一枚も出てこなかった。地主も三代目に代替わりしており、先代同士の口約束の詳細を知る者は誰もいない。隆之は「もし契約書がなければ、借地権そのものが認められないのではないか」と不安に駆られ、夜も眠れないほど頭を悩ませた末、司法書士に相談することにした。
「契約書がなくても、借地権が消えるわけではありません」。司法書士はそう説明すると、隆之の表情が少し和らいだ。借地借家法十条により、借地人が土地上の自己名義の建物を登記していれば、たとえ地主との賃貸借契約書が存在しなくても、第三者に対して借地権を主張できる対抗力が生じるという。隆之の家は祖父の代からずっと祖父名義、父名義、そして隆之名義へと相続登記を経ながら建物登記がされ続けており、これがまさに借地権の存在を裏づける有力な証拠になるとのことだった。
さらに司法書士は、地代の領収書も重要な証拠になると教えてくれた。隆之の家には、祖父の代から几帳面につけられていた地代の領収書の束が、古い菓子箱の中に保管されていた。毎月の支払い日と金額が几帳面に記録されたその束は、賃貸借関係が長期間にわたり継続してきたことを示す何よりの証拠だった。振込ではなく手渡しで地代を払っていた時代の領収書は、日付も金額もかすれて読みにくいものもあったが、一枚一枚を丁寧に整理し、年表のようにまとめ直すことで、支払いの継続性を誰の目にも分かる形で示すことができた。建物登記簿謄本と地代の領収書、この二つがそろえば、契約書がなくても借地権の存在を客観的に説明できるという。
とはいえ、口約束のままでは今後また同じ不安が繰り返される。相続が発生するたびに、また今回のような綱渡りの証明作業を強いられるのは避けたい。司法書士の提案で、隆之は地主に連絡を取り、これまでの経緯を丁寧に説明したうえで、あらためて「賃貸借確認書」を取り交わすことを申し出た。地主も、先代からの経緯を正式な書面として残しておきたいという思いは同じだったようで、話はすんなりまとまった。確認書には、借地の範囲、地代の額と支払方法、借地期間の起算点などを、登記簿と領収書の記録に基づいて明記した。
数週間後、双方が署名押印した賃貸借確認書が完成した。隆之は不動産会社にその写しと登記簿謄本、地代の領収書のコピーを提出し、隣地の売却話も無事に進んだ。担当者からは「これだけ根拠がそろっていれば十分です」と言われ、隆之は肩の荷が下りる思いだった。契約書がないからといって借地権が失われるわけではないが、証拠を整理し、地主との関係を書面で確認しておくことの大切さを、隆之は今回の一件で身をもって学んだ。祖父から受け継いだのは古い家だけでなく、地道に積み重ねられてきた記録という財産でもあったのだと、隆之はしみじみと感じている。
学びのボックス
| 借地借家法10条の対抗力 | 借地人が自己名義で土地上の建物を登記していれば、地主との契約書がなくても第三者に借地権を対抗できる。 |
| 契約書がない場合の証拠 | 建物登記簿謄本と地代の領収書(支払いの継続記録)が、借地権の存在を裏づける有力な証拠になる。 |
| 地代領収書の整理方法 | 日付・金額を年表形式に整理し直すことで、賃貸借関係の継続性を客観的に示すことができる。 |
| 賃貸借確認書の再作成 | 契約書がない場合でも、地主との合意のもとで借地の範囲・地代・起算点等を明記した確認書を新たに取り交わすとよい。 |
| 相続時の備え | 相続や不動産取引の際にあわてないよう、登記簿・領収書・確認書などの証拠は日頃から整理・保管しておくことが大切。 |




