『建物買取請求権』行使後、明渡しまでの『不当利得(使用料)』の支払い
市川洋子は六十九歳。亡き夫から受け継いだ六十坪の土地を、四十年以上、中井さんに貸してきた。今年、借地契約の期間が満了を迎える。洋子は、長男が家を建てるための土地として、更新を拒絶した。正当事由を補うために、立退料も用意して交渉を重ね、中井さんも渋々ながら、契約は更新されないという現実を受け止めたはずだった。洋子は、これで長男家族が戻ってこられると、胸をなで下ろしていた。
ところが、期間満了の直前、中井さんから内容証明郵便が届いた。「借地借家法に基づき、建物買取請求権を行使します」。建物を時価で地主に買い取るよう求める権利だ。洋子は動揺を抑えきれず、翌朝いちばんに、弁護士のもとへ走った。「買取請求が出されると、どうなりますか」。弁護士は、落ち着いた口調で答えた。「中井さんが権利を行使した時点で、建物の売買契約が成立したのと同じ効果が生じます。建物の代金は、時価で決まります」。
洋子は、さらに不安を口にした。「では、すぐに明け渡してもらえるのですか」。弁護士は、首を横に振った。「いいえ。中井さんは、建物の代金が支払われるまで、建物の引渡しと、土地の明渡しを拒むことができます。いわゆる留置権や同時履行の考え方です。代金を払わない限り、居座られても、強制的に出てもらうことはできません」。洋子は、肩を落とした。夫の代から続いた借地の終わりが、こんな形になるとは思っていなかった。
建物の価値を、不動産鑑定士に調べてもらうと、約七百八十万円だった。洋子は、長男の家の建築費用に加えて、この代金の用意にも頭を悩ませた。そこへ、新たな問題が起きた。契約が終了したと考えた中井さんが、地代の支払いを止めたのだ。「もう借地契約は終わった。建物の代金も払われていないのだから、地代は払わなくてよいはずだ」。
弁護士は、この主張に待ったをかけた。「賃貸借が終わったあとも、土地を使い続ける以上、中井さんは土地の使用料にあたる利益を得ています。これは、不当利得として返還する義務があるとされています。金額は、近隣の相場や従前の地代を参考に、地代相当額で考えるのが一般的です」。ただし、あくまで地代ではなく、不当利得の返還という位置づけだった。
弁護士は、中井さんに文書を送った。買取請求後も土地を使用している間の使用料、月四万円を請求するとともに、建物代金の支払い準備が整ったことを知らせて、明渡しの時期を協議したい、という内容だった。中井さんは、はじめは「地代はもう払わない」と反発したが、弁護士から、不当利得返還請求の仕組みを丁寧に説明されると、態度を和らげた。
洋子は、親族から資金を借り、長男とも相談して、建物代金を準備した。使用料が半年分、約二十四万円たまっていたため、代金から差し引くことで合意した。七百八十万円から二十四万円を引いた七百五十六万円を支払い、中井さんは建物を引き渡して、土地を明け渡した。契約書、鑑定書、振込記録は、すべて弁護士が整理して保管した。洋子は、ようやく長い夜から解放された気持ちになった。
洋子は、買取請求が出ると、すぐに明け渡してもらえるわけではないことを、身をもって知った。一方で、居座られている間も、使用料を請求できる。地主は、買取請求への備えとして、建物代金の資金計画を早めに立てておくこと。そして、借地人は、土地を使い続ける間の対価を払う義務があること。洋子は、そう周りの地主に伝えている。
学びのボックス
| 建物買取請求権の効果 | 借地人が行使すると、建物を時価で売買したのと同様の効果が生じる。建物の代金は、行使時点の時価を基準に決まり、争いがあれば鑑定を行う。 |
| 代金支払までの留置 | 借地人は、代金が支払われるまで建物の引渡しと土地の明渡しを拒める。地主は、代金を用意しなければ強制的に明け渡させることはできない。 |
| 使用料は不当利得 | 買取請求後に土地を使い続ける間は、賃料ではなく不当利得として、地代相当額の返還義務がある。借地人が地代を止めてよいわけではない。 |
| 代金との相殺 | 未払いの使用料は、建物代金から差し引いて精算する方法がある。金額や時期は、合意書に明記しておく。 |
| 地主の事前準備 | 更新拒絶を考える地主は、買取請求に備えて建物代金の資金計画を立てる。請求を受けたら早めに弁護士へ相談し、鑑定や通知を進める。 |




